フィアット500の軌跡と現在【連載第1回】誕生の背景と“チンクエチェント”神話のはじまり(1957〜1970年代)

2025.04.14

第1回:誕生の背景と“チンクエチェント”神話のはじまり(1957〜1970年代)

1957年7月4日――イタリアに一つのアイコンが誕生した。

その名は「Nuova 500(ヌォーヴァ・チンクエチェント)」。フィアットが送り出した、わずか全長3メートルにも満たないこの小さなクルマは、イタリア国民の生活を大きく変える存在となった。

■ 戦後イタリアが求めた「国民車」

第二次世界大戦からの復興を進める1950年代のイタリア。経済成長の波とともに、人々の移動手段も徒歩や自転車からモーターサイクル、そして自動車へと変わっていく。だが、当時の自動車はまだ一部の富裕層のものであり、一般市民には手の届かない存在だった。

そこでフィアットが掲げたのが「誰もが買えるクルマ」。

開発の中心を担ったのは、当時のフィアットの設計責任者、ダンテ・ジアコーザ。彼はすでに戦後のモペット的存在「500トッポリーノ」や「600」を成功させた人物であり、その延長線上に“真の大衆車”としてのNuova 500があった。

■ 画期的な設計:小ささは美徳

Nuova 500の最大の特徴は、やはりそのサイズ。全長2,970mm、全幅1,320mm。現代の軽自動車と比べてもひとまわり小さい。そのボディに、空冷直列2気筒の479ccエンジンをリアに搭載(RRレイアウト)し、後輪を駆動するという設計は、まさに「必要最小限」でまとめられた合理的パッケージだった。

また、車重はわずか500kg台。エンジン出力は13馬力程度と非力ではあるものの、都市部での移動には十分。なにより、この小さな車体がイタリアの狭い路地にぴったりとフィットした。

■ シンプルな魅力が生んだ“チンクエチェント文化”

Nuova 500は、単なる移動手段を超えた存在となる。

愛らしい丸目、アイコニックなフォルム、そして低価格――若者から高齢者まで、誰もが使え、誰からも愛される「生活の相棒」になった。イタリアの街角には500が溢れ、パーキングも自由自在。ついには“500=フィアット”というほどのブランド的存在にまでなったのだ。

加えて、「Giardiniera(ワゴン)」「500L(ラグジュアリー仕様)」「500R(廉価版)」などの派生モデルも登場し、生活の多様なニーズに応えるシリーズへと進化していった。

■ まとめ:イタリアの心とともに走ったクルマ

Nuova 500の生産は1975年まで続き、総生産台数はおよそ380万台。

それは単に数の話ではなく、イタリア人の心に根ざした“暮らしのシンボル”としての証しであった。

次回は、なぜこの成功した500が一度消えていったのか――その背景と、時代の変化にフォーカスします。

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