FERRARIと太田哲也
かつて「日本一のフェラーリ遣い」と呼ばれた太田哲也が、1993年から1997年にかけて試乗した数々の貴重な跳ね馬のインプレッションと、当時のレースシーンをそのままにお届けします。
今回は、太田哲也とフェラーリが出会ったきっかけを、数回に分けてお送りするレポートの最終回。太田哲也とフェラーリの邂逅が紡いだ類まれなヒストリーを総括します。

3度目のル・マンは エネアからの出場が決まる
3回目のル・マンがやってきた。過去2年間は、ル・マンの不幸な事故から回復したロビンと彼のシンプソン・エンジニアリングとジョイントし、フェラーリ348LMで参戦してきたが、ここで大きく体制を変えざるをえなくなった。というのもチームが出場車の予選タイムの急激な向上を考慮し、予選通過を前に348LMでのル・マン参加を見合わせることにしたからだ。ル・マンが変化してプライベートチームがコツコツと参加することが困難な状況になってきたのだ。
シンプソンとのレースはいろいろなドラマがあった。初めてのル・マンでのアクシデント。ネバーギブアップの気持ちで出場したバレルンガ耐久。予選でクラス3位をゲットし、クルマの速さを証明できた鈴鹿1000キロ。そして2年目のル・マン、全員が歓喜して迎えてくれた、予選最終ラップのジャンプアップ。落胆と感動。まるでドラマのように、本当にいろいろな事があった。彼等はいつもプアなプライベートチームだったが、ボクにいつも夢を与えてくれた。バブルが崩壊した後、レースに疑問を持っていたボクに、それまでとは別のレースがあることを教えてくれた。結果だけが全てじゃないということ。たとえば途中でリタイヤして結果が出なくても、それはゼロで終わることじゃなくて、どれだけ頑張ったか、という過程が大事で、それが周囲にも感動を与えるということ。そして決して諦めないということも。
彼等との別れは辛い。しかしどうにもならないことでもある。一緒にレースをやったということだけじゃなくて、家族ぐるみの付き合いとなっている。「君だけは絶対にル・マンに出てくれ」と、ロビンからのファックスにあった。
それからのことは、ティーポの山崎氏と相談して、あくまでもフェラーリにこだわっていくべきだろうということになった。そこでエネア・フェラーリ・クラブ・イタリアと話し合い、1995年のル・マンからA・オロフソン/L・デラ・ノーチェたちのクルマに乗れることとなった。
彼等はBPR(ヨーロッパのGT耐久シリーズ)にフェラーリF40で参戦し、常にトップランナーとして大活躍中である。フェラーリ・クラブ・イタリアがチーム運営を行い、ミケロットがメンテナンスを担当。ミケロットといえば、フェラーリ本社のもとレーシング・カーの製作やレース活動を行うセミ・ワークス的な存在で、日本で言えば、トヨタのTRD/トムスといった存在なのだから強力だ。ドライバー兼チームのまとめ役を務めるA・オロフソンはバレルンガや鈴鹿1000キロでのボクの走りを見て、チームに推薦してくれたという。まさか日本人のボクがフェラーリの準ワークスチームに入るなんて、信じられない。3年前のどん底の時には想像も及ばないことだ。そして一緒にやってくれる山崎編集長のような人達がいてくれる有り難さに加えて、今までコツコツとやってきたことを、見ていてくれた人がいるということも嬉しかった。
フェラーリに対する思いの変化
シンプソン・フェラーリ348LMのオーナーでもあったイタリア人、ステファノ・セバスチャーニからフェラーリ社の開発担当重役、フェリーサ氏を紹介されレースや市販フェラーリの操縦性について話したり、モータージャーナリストとして348スパイダー、F355、456、F512M、F50などの新型車をフィオラノ(フェラーリ本社の中にあるテストコース。市販車のテストはもちろん、F1のテストも行われる)で試乗したり、ル・マンをきっかけにフェラーリを訪れる機会がぐっと増えてくる。
市販フェラーリは、V8エンジンの製造工程を一部オートメーション化し近代化が図られたとは言え、主要な工程はいまだに熟練工の手に委ねられている。そして彼等の傍らにはだいたい、故エンツォ・フェラーリのポートレートが飾られている。
ある時、コース傍らの、中世の農家をリメイクした建物(といっても白い壁に赤い窓枠のモダンな造りである)に招き入れられた。2階のエンツォの部屋に足を踏み入れると、三方の壁には、代々エンツォのために、文字通り命を賭けてきた歴代のドライバー達の写真がずらりと年代順に掲げられ、その前に数え切れないほどのトロフィーが並んでいる。部屋の奥にはエンツォの机、椅子、本棚がそのままの状態で置かれ、机の上には彼が愛用していたという紫のペン。
「いついらしてもいいように、そのままにしてあります」、と、初老の執事。フェラーリの人々の中では、今でもエンツォは生きているのだ。
ボクが初めてル・マンでフェラーリ348LMのステアリングを握った時には、フェラーリそのものに対する思い入れはほとんど無かったのだが、こうしてフェラーリというものを知るにつれ、フェラーリのクルマが単純な工業製品ではなく、多くの人が手をかけ長い間暖めてきた魂が入っているように思えてきた。だから今、エンツォのフェラーリが、とても好きなのだ。
フェラーリを駆るということ
フェラーリの造るレーシングカーは、イタリアの伝統工芸のベネチアン・グラスに似ていると思う。繊細で美しいが、どこか瀟酒で脆い。
ポルシェの美しさは、理詰めでデザインされた機能美で、もともと頑丈に造られていて節々に乗り手に対する配慮が感じられる。レーシング・ポルシェにも同じ思想が流れていて、いうなればまるドライバーのミスを前提としているような、例えばシフトチェンジひとつとっても、多少ラフな操作を受けつけてくれる懐の深さを兼ね備えている。エンジン特性にしても中速域からトルクフルで、扱いやすい。それに対してフェラーリは、高回転型でピークパワーはあるが、パワーバンドが狭く、「美味しい部分」を使いこなすのが難しくて、ちょっと回転を落とし込んでしまうと大きなタイムロスに繋がりやすい。
フェラーリは、走りの芸術性といえるようなあくまでも一発の速さに拘り、耐久性やドライバーへの配慮にはそれほど重きをおかない、といった感じで、逆にいえばフェラーリは乗り手を選ぶということなのかもしれない。
ところでボクは、もともと熱狂的なフェラーリ・ファンであったわけじゃなく、フェラーリとはレースを通じて知り合った。最初は運転しにくいクルマだな、と思ったのに、いつしかどんどん引き込まれて、今や夢中になっている自分に驚いてしまうほどだ。その理由のひとつは、フェラーリのスイート・スポットが狭い点にもあるかもしれない。
例えばシフトチェンジひとつとっても、操作が下手だとギア鳴りしたりしてフェラーリは露骨に嫌な態度を見せるが、上手くやると吸い込まれるように気持ち良くチェンジができる。そうした時には、芯を食ったような手応えが手のひらに伝わってきて、ぞくぞくするほど気持ち良い。まるで生き物のようなマシンとの対話が楽しいのだ。「へた」「まあまあね」そんな言葉が聞こえてくるようだ。ちょっと高慢な台詞も絶世の美女に言われるなら、悪い気もしないものだ。きっと、ボクはそんな気持ちを持ち続けていくような気がする。












