視界が歪む加速とV12の咆哮──フェラーリ640 (1989) 渾身のサーキット試乗インプレッション Part1

  • 太田哲也
2025.11.23

FERRARI 640

かつて「日本一のフェラーリ遣い」と呼ばれた太田哲也が、1993年から1997年にかけて試乗した数々の貴重な跳ね馬のインプレッションを、当時の興奮をそのままにお届けします。
今回は、1989年のF1でゲルハルト・ベルガーがハンドルを握ったフェラーリ640を、太田哲也が岡山国際サーキットで試乗したレポート、その前半をお届けします。

ついに実現したフェラーリ640の試乗

ANA651便、羽田7:15発岡山行。今年になって何度目だろう、この飛行機に乗るのは。

タラップから空を見上げる。雲一つない青空から陽光がさんさんと降り注ぎ、「今日こそ乗れる」ことを確信したが、それでもどうも落ち着かない。

最初は、オイル・ラインの漏れが判明し、エンジンの始動を断念した。2回目は走る直前に雪が降り始めて諦めた。そして3度目も雪。シャーベット状のコースを恨めしく眺めるしかなかった。そして今度こそが今日なのである。

空港からクルマで約1時間。水墨画のような独特の表情を見せる中国山脈のワインディングを抜けると、GPコース「TIサーキットAIDA」が突然現れる。28番ピットでボクらを待っていたのは、89年F1GPでベルガーがドライブした真紅のフェラーリ640だった。丁度、暖機のためエンジンを始動させるところで、タイヤが取り外された640はリジット・ラックに乗せられ、エンジンには事前に強力なジェット・ヒーターを掛けて温められている。

元マクラーレンのメカニックであり、日本でもF3000やGCの経験が豊富な蓮池メカニックは手慣れた様子で12個のトランペットにガソリンを噴霧し、スロットルを調整して「回せ」と指示。もう一人のメカニックが車外スターターを640のミッション・ケース・エンドに押し込む。

「ヒュイーン……」。かからない。

もう一度最初からガソリンを噴霧し同じ行程を繰り返すが、冷えきったエンジンはなかなか息を吹き返そうとしない。周囲が不安を感じ始めた5回目のトライでようやく「グァックァックァッ」と掛かる気配がし、それから5秒程して、「クワァーン」とフェラーリV12が轟然と目覚めた。

スロットルをあおる蓮池メカニックの指の動きに連動して、リジット・ラック上の640は「クアーンクアーン」と大音響を上げ、エンジンの回転マスで生き物のように激しく体を踊らせている。信じがたいほどけたたましいエグゾースト・ノートに取り囲まれて、ボクはさっきとは別の不安にかられていた。「とんでもないことに足を突っ込んでいるんじゃないだろうか……」。

コクピットの中で

クイックリリース式のステアリングを外す。サイド・ポンツーンを跨いでタンのバックスキンで覆われたバケットシートに乗り込む。コクピットは狭く両肩に新たなサポートを必要としないくらいボクにぴったりだ。大柄なベルガーにとっては相当きつかったのではないだろうか。メカニックの手で6点式ベルトがぐいくいと締め上げられ身体がバケットシートにがっちりと固定される。ステアリングの間からマルチ・ディスプレイと1万4000rpmまで刻まれたデジタルのレブ・カウンターが覗いている。マルチ・ディスプレイは左側にシフト・ポジション・インジケーター、右側に通常は水温が表示され、左側の切り替えスイッチで油温、油圧、燃圧などの表示も可能となる。

パネル右下のメインスイッチをON。ニュートラル・ポジションにあること示す「0」の表示をシフト・ポジション・インジケーターで確認し、左手を上げる。その合図でメカニックが車外スターターを押し込み「ククククッ」とクランキングすると、暖機が済んだエンジンは今度はすぐに目を覚まし「キィーン」というV12の高音がヘルメットの中を充満した。

エンジンをブリッピングしてみる。スロットル・ペダルにわずか3mmほど足を乗せただけでレブ・カウンターがぴんと跳ね上がり、離した瞬間に秒の遅れもなくストンと落ちる。恐ろしく鋭敏に反応するのだ。

クラッチを踏み込み、ステアリングの奥の右側のシフトスイッチを握る。1速ギアにエンゲージされていることを示す「1」がディスプレイに表示されたのを確認し、クラッチをリリースする。クラッチの重さは思ったよりも軽く、F3000程度であろうか、Cカーよりもよっぽど軽い。クラッチの繋がり方もそれほど唐突ではなく、拍子抜けするほどスムーズにスタートした。

シフトスイッチは電気式なのでレバーに反力はなく、そのフィーリングはゲームセンターのドライビング・シミュレーターのATシフトに近いが、それに連動してエンゲージされるギアの衝撃は後方のギアボックスからがんがんとダイレクトにバケットシートに伝わってくる。

フェラーリ640が採用するセミ・オートマはGTやツーリング・カーに採用されるようなシーケンシャル・シフトとは違い、シフトチェンジの際は全くクラッチを踏む必要はなく、踏み込むのはスタートの時だけである。ちなみにクラッチ・ペダルは、シフトチェンジする度に連動して上下に動いている。

クラッチを踏まずにシフトチェンジするため最初はタイミングが取りにくかったが、数周して慣れてくるとやはり楽だ。ただしヒール&トウを使って回転を合わせる必要はある。

シフトチェンジは瞬時に行なわれる。通常のシフトレバーを持つものとは異なり、シフトをとばすことはできないが、動作が速いから数段シフトダウンする時にも十分に余裕がある。

カメラカーとのフォト・セッションを終え、ピット・イン。もう一度、ヘルメットとフルハーネスを締め上げて、「いくぞッ」と、ヘルメットの中で気合いを入れた。

加速の凄さ

奥がきつい最終コーナーに3速で進入する。ここを抜けるとホームストレートだ。クリッピング・ポイントからスロットルを踏み込み、アウト・クリップの赤白の縁石の始まりでスロットルを全開にする。いきなり、カタパルトで発射されたかのような衝撃的な加速Gに襲われる。背中がシートにめり込み、ヘルメットが後方に取り残される。耳をつんざくようなエグゾーストノートがヘルメットと耳栓を突き破る。デジタルのレブ・カウンターに視線を落とすと、バーが叩き付けるようにレブ・リミットの1万4000rpm(!)を超えようとしている。

右手でシフトレバーを撮って4速にシフトアップ。スロットルを踏み込む。一気にレブ・カウンターが跳ね上がる。

5速にシフトアップ。スロットルを踏み込む。回転の上がりが速くて、レブ・カウンターの途中の回転数が読み取れない。

スロットルを踏みこんだまま6速にシフトアップ。6速であっても普通のスポーツカーが2速で加速しているように、シートに背中がめり込んだままだ。

スロットル全開のまま7速にシフトアップ。トップの7速に入ってレブ・カウンターの動きがようやく見て取れるようになった、と思ったら、目前に第一コーナーのブレーキングポイントが迫っている。レブ・カウンターはストレートエンドで7速、1万4000rpmを指している。

ギア・レシオは極めてクロスしていて、わずか550mのストレートで7速に入り、フル加速時には一呼吸いれる暇もない。それぞれのギアの守備範囲が極端に狭いことと、V12エンジンの特性が典型的な高回転型で回せば回すほどパワーが出ることから、こまめに適正なギアを選ぶ必要があり、シフトが忙しい。

シフト・チェンジ自体の所要時間はほんの僅かで、感覚的には普通車のマニュアルシフトの10分の1くらいだろうか。シフトチェンジにかかるタイムロスはほとんどなく、加速が切れずに3速から7速まで直線的に伸びて行く感じだ。

ピットで見ていたスタッフに後で聞いたら、あまりにもシフトチェンジが速いため、最初はシフトアップしているのではなく、スロットルを煽っているのかと思ったそうだ。

S字を下り、奥のヘアピンを3速で登って650mのバック・ストレートを加速する。

前方の景色は望遠レンズのように、直線の終りの一点だけに焦点が合って周囲がぼやけ、まるで灰色のトンネルの中を突き進んでいるような感じだ。視線を自分の移動に合わせて先に送っていったのでは加速がきつすぎて目が追いついていかない。視界を確保するためにははるか彼方のストレートエンドに視線を置く必要がある。トンネルの出口にぐんぐん吸い寄せられる。それは線上の加速ではなく点と点を結ぶワープ感覚だ。

F3000やグループC等の速いクルマに長年乗ってきたボクはスピードには慣れているから、以前、ある研究機関があらゆるスポーツ選手の能力を計測した際に、反応時間や動体視力に関してはトップレベルだったそうだ。昨年のル・マンでフェラーリF40 GTEをドライブした際も、330km/hで視界が狭まるような感覚は一度も経験しなかった。しかし640では最初、目がついていかなかったのだ。絶対スピードだけでなく、加速の強烈さも視界を狭めるのかもしれない。F1を駆るためにはテクニックだけでなく、超人的な動態視力が必要であると改めて感じた。

▽フェラーリ640インプレッションの後半はこちら
フェラーリ640を操る恐怖と快感! F1パイロットが超人である理由がわかる試乗レポート Part2