アバルト595の進化と魂 【第2回】ブランドの消滅と復活への胎動(1980〜2000年代)
2025.04.21
消えたサソリ、地下で続いた鼓動
1971年、フィアットによるアバルト社の買収により、アバルトは“フィアット・モータースポーツ部門”という新たな役割を担うこととなった。しかし、それは同時に「アバルト」ブランドの消失を意味していた
“フィアット内のアバルト”として続いた技術力
買収後、アバルトはFIA公認ラリー活動の中心として機能するようになる。
その代表格が、1970〜80年代のラリーシーンで一時代を築いたフィアット131 アバルト ラリーである。
このは、1977年から世界ラリー選手権(WRC)で3度のマニュファクチャラーズタイトルを獲得するなど輝かしい戦績を残した。しかしここで重要なのは、表に出ていたのは「FIAT」ブランドであり、「ABARTH」の名は影に隠れていたことだ。
一方で、1980年代以降の市販車において、アバルトの名を冠したモデルはほとんど見られなくなる。小規模なレース車両やチューンドキットの提供は続いたものの、かつての“熱狂”は姿を消した。
アバルトの名を残した数少ない市販車たち
1980〜90年代、数は少ないながらもアバルトの名を残したモデルが存在する。
Fiat Ritmo Abarth 130 TC(1983):ホットハッチ黎明期の代表格。2.0L直4DOHCエンジンを搭載。
Uno Turbo i.e.(1985):軽量ボディ+ターボの先駆け的存在。ABARTHバッジこそなかったが、そのスピリットは宿っていた。
だが、これらのモデルはいずれも“アバルトブランド”として大々的に売り出されたわけではなかった。
一部のマニアに愛されつつも、アバルトの存在は“過去の栄光”として語られる時代が続いた。
2000年代、復活の兆しと“Trepiùno”の影
2000年代初頭、フィアットは業績不振に苦しむ中で、ブランド価値の再構築に着手する。その中の一つが、「懐かしさ」と「情熱」を両立できるアバルトブランドの再生だった。
きっかけは、2004年のコンセプトカー「Fiat Trepiùno(トレピウーノ)」。これは後に新型フィアット500として2007年に市販化され、世界的ヒットを飛ばすモデルとなる。
そしてこの500の成功は、**「あのアバルトをもう一度」**というファンと市場の声を呼び起こすこととなった。
2007年、“Scorpion is back.”
2007年、フィアットはアバルトブランドの完全独立復活を宣言。
アバルト&C社が“再設立”され、本格的に市販車へのチューニングを行う専属ブランドとしての役割を担い始める。
新しいアバルトは、単にスポーティな見た目だけでなく、
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専用サスペンション
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ターボ付きエンジンの高出力化
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ブレーキ強化
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エキゾーストチューニング
といった“本気のホットハッチ”を復活させ、ついに「アバルト500(=後の595)」へとつながっていく。
まとめ:静かに続いた“サソリの血統”
この約30年、“アバルト”という名は表舞台からは消えていたかもしれない。
しかしその精神は、モータースポーツの現場で、技術者の間で、そして熱心なファンたちの間で脈々と生き続けていた。
そして2007年、その蓄積がようやく“咆哮”として再び世界中の路上に解き放たれるのである。
次回は、第3回:「2008年、アバルト595として復活」――その誕生とチューニング哲学について深掘りしていきます。
連載目次:小さな毒蛇の咆哮 ― アバルト595の進化と魂
【第1回】アバルトの起源と“チューンド500”の誕生
【第2回】ブランドの消滅と復活への胎動(1980〜2000年代)
【第3回】2008年、アバルト595として復活
【第4回】特別仕様車と“イタリア流ホットハッチ”の確立
【第5回】EV時代を前に、小さな咆哮はどこへ向かう?
【番外編1】アバルト595 オーナーのリアルボイス
【番外編2】アバルト595 サーキット仕様オーナーの声
【番外編3】アバルト595 vs アバルト500e 乗り比べオーナー対談
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