悔しいという想いがモチベーションになる

僕はなぜ走るのか。
答えは単純で、悔しいからだ。
まだ終わっていないという気持ちもある。年齢や障害にあらがいながら、どこまで行けるのか。人間の可能性を探ってみたいという想いもある。
1998年のレース中のアクシデントが無ければ、現役ドライバーとしてレースを続けていたし、その後は監督として、あるいはチームオーナーとしてレース界に関わっていたはずだ。現役時代に密接だったフェラーリとの関係も、さらに良好になっていたと思う。
瞬発力や体力が必要となるフォーミュラに20代で乗り、経験値が勝敗を左右するGTなどの耐久レースに30代になってから転向した。これは正しい選択だったし、38歳だった事故のときにも選手としてのパフォーマンスはまだ上昇途中だと感じていた。
だからこそ、あの事故がなければ自分はどこまで行けたのだろうか、という想いが残っていて、いまだに夢に出てくる。
自分のポテンシャルがどれだけだったか知りたい

いま、66歳となって、体力と判断力が日々落ちていくのは仕方ない。しかし、「自分のレーシングドライバーとしての能力がどこまであったのか」を知りたい。サーキットを走り続けることで経験値がさらに上がり、「技術の蓄積がどこまでいくのか?」という興味も失っていない。
どのスポーツでも、プロ選手はいつか引退することになる。使ってくれるチームがなくなることによって引退するケースもある。現役バリバリのときよりも体力と判断力が落ちてきたことを周囲の人々やファンに見られたくないと考え、自ら引退を選択する場合もある。そしてカズのように引退せずに続けるパターンもある。
今の僕はカズのパターンかな。僕自身、周りの目を気にする時期もあった。周囲は「太田選手だから(速くて当たり前)」というニュアンスで声を掛けてくることがよくある。「歳をとって障害もあるのに、そう簡単じゃないって」と言いたいが、そうは見られない。
もし遅ければ、「なんだ太田選手って大したことがなかったんだ」と思われてしまうのではないかと考える。自分の名前を汚してしまうことを恐れる気持ちはもちろんある。
人はどうしても、その選手の最後の姿をイメージとして記憶に残しがちだ。
それを恐れて、まだ走れるのに絶頂期で引退する選手も少なくないのだろう。
モータースポーツは年齢差が決定的ではない

しかし今は、自分の中にある「軸」から見てどうなのか、ということを考えるようにしている。他人の目を気にして、自分の軸を変えてしまったら、人生がもったいないと思うからだ。
「周囲の人々が自分をどのように見るか」ということを気にするよりも、僕のことを後ろから見ている「もうひとりの自分がどう見ているか」を行動規範としている。
マツダ ロードスターでのワンメイクレースもアルファロメオ・チャレンジも、おそらく僕が最年長のエントラントだろうが、20代の選手たちと互角に戦えるから面白い。
モータースポーツは経験や技術が武器になる競技だからだ。たとえばサッカーや陸上競技のように、体力差によって年齢差が決定的になるスポーツとは違う。
太田さんって何歳ですか?と聞かれることが多いのだけど、自分の中ではまだ40歳ぐらいの感覚だ。昔から親交がある若手雑誌編集者やライターと話していて、「ところでいくつになった?」と聞いた時、若いと思っていた彼らがすっかり50代になっていた、なんてことがある。
そんなときは、
「なんだ俺が一番年下か!」
と言う。
これはけっこうウケるんだ。体力は別として、気持ち的には、まだ高校生くらい。これからやってくる未来を見ている。
人間はどこまでやれて、どこまで成長できるのか

さて、悔しいという想いは、人を前へ進ませる。
そして「まだ終わっていない」という気持ちもまた、人を動かす原動力になる。
限界を決めるのは自分自身。
人間はどこまでやれるのか。
どこまで成長できるのか。
それを知るため、今日もサーキットを走る。
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