FERRARIと太田哲也
かつて「日本一のフェラーリ遣い」と呼ばれた太田哲也が、1993年から1997年にかけて試乗した数々の貴重な跳ね馬のインプレッションと、当時のレースシーンをそのままにお届けします。
今回は、太田哲也とフェラーリが出会ったきっかけを、数回に分けてレポートします。

フェラーリとの出会いは、一枚のFAXが始まりだった
1993年、ボクにとっては特に長かった冬が過ぎ、ようやく春風が吹き始めた頃、ボクのもとにイギリスから一枚のFAXが入る。マツダ・ワークス時代のチームメイトであった、デイビット・ケネディからだった。「ル・マンに出場する気はあるか?」と、そこには書かれていた。
はじめての挫折
91年のF3000(現フォーミュラ・ニッポン)鈴鹿最終ラウンド。オープニングラップでボクは他車と接触し、左親指付け根を骨折した。
F3000は、ダウンフォースが高いため高速コーナーではステアリングが重く、両手で保持しているのが精一杯な程だから、右手だけの片手運転は辛い。もとより片手では正確なステアリング操作は不可能だ。さらにシフトチェンジの際は、右手でシフトチェンジを行うため、左手でステアリングを抑え込まなければならない。冷静に考えれば、すぐにリタイヤすべきだったろう。
しかし当日サーキットに来ている100人を越すスポンサー関係者やチームの面々に対する責任。そして自分自身止めたくないという気持ちもあった。決めかねているうちに周回は過ぎて行く。コーナーの進入前(つまりストレート部分)にシフトダウンを完了し、シフトアップは許容回転数にこだわらないで、ステアリング直進部分でシフトアップし、走り続ける。何とか残り35周を走り切ることができたものの、無理がたたって折れた骨は完全に離れ、ボルトを埋め込んで繋ぐ程悪化してしまい、シーズン後半戦を棄権せざるを得ない状況に陥った。
悪い事は重なるものだ。リハビリとともに、バブル経済の大崩壊が始まりスポンサー難がレース界を襲う。所属していたF3000チームは解散。グループCで契約していたマツダ・ワークスもまさかのレース撤退宣言。グループAからも遠ざかり、全日本選手権のタイトルの掛けられた全てのレースのシートを失う。スポンサーからの広告収入で成り立っているレース業界は、大打撃を受け、チーム数が激変している。新たに自分のシートを探すのは困難な状況で、プロ・ドライバーとして危機にあった。スケジュール帳は真っ白。収入は前年度10分の1に落ち込んでしまった。
世の中で起こっていることを見渡してみると、これからの数年は、レースで食っていくのは難しいように思えた。だけど今更、レース以外の仕事は考えられない。これからどうしよう、と考える毎日だった。
振り返ってみると、それまでのボクは驚く程ラッキーだった。子供の頃からゴーカートの英才教育を受けるチャンスがあったわけでもなく、普通に18才で免許をとってからモータースポーツを始め、アルバイトで貯めた僅かな資金を注ぎ込んでFJ1600レースの後半戦から出場した。翌年、チャンピオンを獲得してから、上級カテゴリーのレーシングチームから声が掛かるようになる。F3にステップアップした3レース目に表彰台に上がり、ポールポジションも獲得したことで、その年の最終戦で、当時、日本のトップカテゴリーだったGCに乗るチャンスを与えられた。まともレースを始めてから5年目、自分でも信じられないほどのスピード出世だった。翌年からは、GC、F3000と日本のトップカテゴリーに出場し、耐久レースでは、名誉なワークスチームと契約。気付いてみると年間に20レース以上をこなし、年間120日以上サーキットで走り込む、夢にまで見たプロフェッショナル・レーシング・ドライバーとしての生活が始まっていた。毎年毎年、ドライバー収入も鰻登りで、少々、有頂天にもなっていた。レースを始めてから10年、そんな時に初めての挫折らしい挫折を味わう。突然の失業。これからどうやって生きて行けばいいんだと悩んでいた。
モータージャーナリストを目指す
そんな時、解散したチームの監督でもあった「チェッカー・モータース」の兼子氏に勧められたのは、ライターとして自動車雑誌で試乗記を書く、ということだった。
「クルマを運転して評価する点では、レースも自動車評論も同じ。スピードが遅いからもっと楽だよ(笑)!?」
いつもノリが軽い兼子社長である。
「ナルホド」。その時は簡単に納得してしまったボクだが、今から考えれば、手紙さえまともに書いたことがない奴が雑誌の記事を書くなんて、相当にずうずうしい話である。
兼子氏曰く、「(自動車月刊誌)ティーポは他のレーサーが(誌面に)出てないし、内容が良い」ということで、媒体はティーポに勝手に決定。言い出しっぺの兼子氏にティーポ編集部を紹介してもらい、門を叩いた。
そこでボクはティーポ編集長の山崎氏と出会い、新たな方向性を見つけることになるのだが、もちろんその時点では考えも及ばないことであった。
軽いノリで始めたライター稼業だが、やるからには一生懸命やろうと、自動車関連の本や雑誌を片っ端から読みあさる。レーサーとモータージャーナリストとは分野が多少違いこそすれ、乗って評価する点では確かに共通性も高く、またいろいろなクルマに乗っていると作り手の考え方が見えてきて興味深い。ワープロと悪戦苦闘し約1年。ようやくブランド・タッチをマスターした頃であった。イギリスからファックスが入ったのは。
ル・マン初出場(シンプソン・フェラーリ348LM)
ル・マン出場に関して、最初のオファーがあったのはロータス・チームからだったが、1か月後にデビット・ケネディを通じて来た回答は、契約上の問題で「No」であった。がっかりしている間もなく、また彼からファックスが入る。
「9年振りにフェラーリがル・マンに出場することになった。プライベート・チームだけど、乗るか?」
今となればボクにとって重要なキーワードとなっている”フェラーリ”だが、この時点のボクにとっては正直なところ、ロータスでもフェラーリでもポルシェでも、なんでも良かったのである。それまではフォーミュラカー・レースを中心に据えて活動してきたから、率直なところ、フェラーリに乗るという魅力よりも、ドライバーとして復帰する足掛かりとしてル・マン出場をとらえていた。たまたまフェラーリであり、たまたまル・マンだったのであり、始まりは偶然だったのである。
やきもきしながら返事を待ち、諦めかけていた2日目の深夜、ファックスの音でベッドから跳ね起きる。引き千切るようにして手にした跳ね馬のマーク入りのファックスにはこう書かれていた。「Welcome to the seat of Ferrari 348lm」
新天地、ル・マンへ
以前マツダ・チームと契約していたときは、来年こそはル・マンに出場させるから、と言われて連れてこられていたから、サーキットの雰囲気は分かっていたが、やはりシャルル・ド・ゴール空港に降りたって、いよいよ自分が乗ることになって戻ってきたかと思うと、ジーンと込み上げてくるものがあった。スポンサーは、チェッカー・モータースとマルカツさんが快く引き受けてくれた。応援してくれる人がいてくれる幸福をしみじみと感じる。
月曜日の朝、ル・マン市の中心部ジャコバン広場で行われる公開車検でチームの面々と笑顔の対面。翌日には日本からインサイド・レポートのためにやってきたティーポ取材スタッフと山崎編集長と合流。「夢」を乗せたル・マン・チャレンジがスタートする……。












