30年来の盟友、『Tipo』創刊400号を祝う。太田哲也とカーマガジン『Tipo』の軌跡

2025.02.28

はじめに

自動車専門誌『Tipo』が創刊400号を迎えた。この記念すべき節目に、僕と『Tipo』の30年以上にわたる関係を振り返りながら、レーシングドライバーとしての転機や雑誌とのエピソードを紹介する。

Tipo』との馴れ初め

2025126日に開催された「Tipo 創刊400号記念読者ミーティング」に参加し、これまでの歩みを思い返さずにはいられなかった。僕と『Tipo』の関係は、バブル経済が崩壊した1990年代初頭に遡る。グループC、グループAF3000というトップカテゴリーで走っていたが、資金難でチームが次々に解散し、レーシングドライバーとしての道が閉ざされた。

そんなとき、チェッカーモータースの兼子社長が「自動車評論家を目指してみては?」と提案し、当時の『Tipo@「崎さんに電話をしてくれた。山崎さんは「純レーシングカーをドライブしていた者がクルマの原稿を書くのはいままでなかった」と興味を持ち、試乗記の執筆を提案してくれた

最初は手探りだったが、「限界インプレッション」というスーパースポーツカーの限界性能を暴く企画が読者に支持された。グループCカーと比べればスーパースポーツカーはおもちゃのようなものだったが、限界域の挙動を文字にするのは難しかった。編集者には遠慮なく赤字を入れてくれるよう頼み、彼らもとことん付き合ってくれたことで、読者に伝わる記事が完成した。

レーシングドライバーとしての復帰と『Tipo』のサポート

モータージャーナリストとして活動する一方、再びプロレーサーとしての道が開けた。イギリスのシンプソンチームからル・マン24時間レース出場の話があり、日本人として初めてフェラーリでル・マンを走る経験を得た。国内ではチーム・タイサンから声をかけられ、F40 GTで全日本GT選手権にも参戦。さらにフェラーリの準ワークスチームからF40 GTEでル・マンに出場した。

当時の自動車雑誌はレース記事を「外からの視点」で書くのが一般的だったが、『Tipo』編集部は現地取材を通じてインサイドストーリーを読者に届けた。特に山崎編集長は取材にとどまらず、スポンサー獲得活動をサポートし、外国チームが日本に来た際には現場に入り込み、さまざまな世話を焼いてくれた。読者はこれまでにないリアルなレース体験を誌面で楽しめた。

瀕死の事故と『Tipo』の支え

1998年、僕はGT選手権での多重事故で瀕死の重傷を負い、退院後も身体を思うように動かせない日々が続いた。そんな中でも編集部の嶋田さんが毎月自宅に訪れ、僕の話を聞きながら記事を作成してくれた。書くことを通じて社会とつながっていられたのは、『Tipo』のおかげだった。

この時期から編集部との連携はさらに密接になり、「明日、何をやる?」と相談しながら連載エッセイ「KEEP ON RACING」を続けた。そして、気がつけば『Tipo』は創刊400号に到達していた。

この記事を通じて、『Tipo』がこれまで僕に与えてくれた影響と感謝の気持ちを伝えたい。これからも『Tipo』がクルマの楽しさを伝え続けることを心から願っている。

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